今どうなってるの?!東大阪
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ふるさと東大阪2010年6月19日掲載





 “水辺に栄える町” どこだと思われますか?タネ明かしをすると、池島周辺の写真に手を加えたもの。大昔、このあたりに湖や沼地が広がっていたといいます。現代ならどうなる・・・と、試してみました。いまでも池島福万寺治水緑地には、その面影が残されています。 ある人の話では、『池島』という地名は、沼や湿地に浮かぶ池の島のように見えたからではないかとのことです。教えてくれたのは、郷土史家の杉山三記雄さん。今回、杉山さんの案内で、古い歴史をもつ池島の人物と史跡をもとめて歩きました。   
  泳いで遊んだ恩智川

「杉山さん、よろしくお願いします!」
 
6月はじめ、東花園駅で杉山さんと落ち合う。子どものころ若江から恩智川にやってきて、泳いでいたという杉山さん。 「川底は、砂地のきれいな川でした。シジミを採り、みそ汁に入れて食べていました」と、小学校の頃のはなしに花が咲く。
 (私は、「池のザリガニを食べましてん」と、言わんでもいいことを・・・)

 
「まち・むら文化研究会」の会長の杉山三記雄さん。 
 今年度から、「河内の郷土文化サークルセンター」の会長を務める。

     三池橋から西を見る
 「そうそう!子どものころ、こんなことがありまして」と語ってくれたのが、米軍飛行機の不時着事件。恩智川にかかる三池橋から西の方向の道路に、2機のプロペラ機が燃料切れで降りてきたという。戦後10年以上たったころのこと、子ども心に焼きついていたのだろう。
(いまの道路事情からは考えれない)
  条里制のおもかげが

 「このあたりは、一町四方に碁盤の目のように田畑が区切られていたんです」と、杉山さんが教えてくれた。中世条里制の時代に行われたもので、近くで発掘調査が継続中のようだ。この土地からは、弥生時代の遺構も発見されている。
(大昔から水と格闘してきたんだな~)
 

 

 表:池島中学のあたり 裏:発掘のようす
       

  杉山さんにもらった地図のコピー クリック拡大
 池島城がありました!

 杉山さんから、「このあたりに池島城がありまして・・・」と聞かされた。(ええ~っ)
 びっくりする私をみて、杉山さんは説明を加えてくれた。城柵と堀に囲まれた砦のような構えで、天守閣はなかった。城の周りは湿地帯で、攻めにくい実戦的な城だという。また、十三街道や東高野街道が近くを通り、戦略的にも要衝だったようだ。
 渡された資料の地図を見ると、囲まれた中には、たしかに、『城内』や、『大門』の文字が見える。
(なるほど!)

     あて曲げ?

 「ここが昔の城の入り口です」と杉山さん。向こう側は、旧村のたたずまい。うながされて見ると、水路がある。これが囲んで環濠集落となっていたようだ。 村中に進むと、杉山さんは「あて曲げ」という言葉を使い出した。

表:村の入り口 裏:村を囲んでいた水路
 現場で説明してもらってよくわかった。
四つ角で道がずれていて、まっすぐに進みにくいのだ。これは、敵に侵入されても、容易に進ませないための仕かけという。村内のいたるところに“あて曲げ”がある。また、行き止まりの道も多く見られた。

(城が攻められたときの用心なんだな・・・)

表:あて曲げの場所 裏:行き止まりの道


表:「私もおじいちゃんから聞いてます」と話す
   地元の人
裏:灯篭の台座に花月亭・松竹座の文字も
吉本興業の(もとい)となった
 
池島神社の灯篭は、岡田政太郎というこの村出身の興行師が寄進したもの。 この人の死後、それまで築いた寄席を引き継いだのが吉本泰三とせい。今の吉本興業だという。(そーなんだ!)

 岡田政太郎は、有名落語家がすべてを仕切るそれまでのやりかたに反対ののろしを挙げ、入場料を安くして若手の芸人や漫才、奇術などいわゆる“色物”を興行にとりいれていった。まさに今の大衆芸能路線が、明治末期・大正時代にはじまっていた。
 村の浄慶寺に立ち寄ったとき、ご住職の吉水慶心さんから岡田政太郎さんの話を聞かせてもらった。杉山さんは、「新しいことがわかった、人から話を聞くのはだいじやな~」と感激。(私にはさっぱり。そのあと池島地蔵を拝観!)



玉子屋(本名 西本為吉)の墓
もうひとりの芸能界の功労者

ここは池島墓地。墓石に大きく“玉子屋為吉”の名が刻まれているのを発見。これが漫才の祖・玉子屋円辰(たまごや・えんたつ)のものだという。
 若い頃、玉子を売り歩いていたことから、玉子屋
と名乗り、背が高く「煙突」とあだ名されていたことから円辰(エンタツ)とつけた。
 持ち前の美声を生かした江州音頭(ごうしゅうおんど)で頭角をあらわし、ついで、名古屋万歳に工夫を加え、現在の“ぼけとつっこみ”型の漫才へと発展させる役割をはたした。花菱アチャコ・横山エンタツコンビに大きな影響を与え、夢路いとし・喜味こいしなどの漫才師や、河内音頭の音頭取り、歌手などの後継者を多く育てたという。『ワッハ大阪』では、顕彰されている。(そんな人がいたなんて知りませんでした・・・不覚!) 合掌。
          
          
あのひと検索スパイシー『玉子屋円辰』へ ←クリック
 この池島墓地には、前出の岡田政太郎が眠っている累代墓や、玉子屋円辰の弟子で、『やんれ節』を生み出した玉子屋千代鶴の墓がある。また、村相撲の流れをくむ大阪相撲の弓ヶ濱一門の集合墓も拝見できる。       

 何を撮ってるんですか? 
 
池島・福万寺治水緑地を通り過ぎ、恩智川沿いに北に向かって歩いていると、田植えしたばかりの田んぼに望遠レンズを向けている地元の人たちがいた。タシギを観察しながら写真に収めているという。

    このときは、ケリが見られた
 タシギの巣を発見すると、耕運機などに壊されないよう田んぼの持ち主に協力してもらうなど、見守る役目もしているようだ。 自然豊かな『野鳥の里・池島』ならではの光景でレポートをしめくくりたい。

 山すそに見える丘が大阪経済法科大学のある花岡山で、大坂夏ノ陣において、井伊直孝の赤鎧部隊が陣をかまえ、十三街道を通って木村重成が待つ若江堤の決戦場に向ったという。杉山さんの口から、次々と歴史の話がとび出してきました。
 出発から3時間ほどだったが、濃密で貴重な時間をすごさせてもらいました。杉山さんと二度、三度ご一緒すれば、「池島のことはおまかせください」となれるかもしれない。「本日は、ガイド役を引き受けてくださり、ありがとうございました」 
                     レポート:楢よしき


 ※杉山さんは、ホームページに自身の活動を載せておられますので紹介します。
               『小阪庵だより』←クリック


追伸:6月26(土)に“暗越奈良街道と「大軌」”をテーマに地域の歴史を語り合う催しが
   あります。談話者は、「まち・むら文化研究会」の杉山三記雄さんと黒田 収さん。
    
    場 所:大阪商業大学 図書館4階 レクチャールーム4
    時 間:午後1時30分~3時30分
    参加費:無料
    申込み:TEL.・FAX 06-6723-9578

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