2007年10月29日掲載
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枚岡神社の秋郷祭は、目がさめるようなさわやかな秋日和。
14日の早朝7時きっかり、ドンドンドンデドンと太鼓の音が街の中にこだまします。力強さよりも優雅な美しさが、この太鼓の
特色ではないでしょうか。
布団太鼓は、大小あわせて20台。一台の重さは大きいもので約1.5トン。この太鼓を約40名で担ぎます。
今年の「河内国一の宮奉納ふとん太鼓」14日(宵宮)と15日(本宮)秋郷祭は、ひときわ華やいで賑やかでした。
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今回、80年ぶりに太鼓台を新調された、出雲井・鳥居の話を聞きました。
出雲井・鳥居太鼓台保存会・会長の芝開 實さん(出雲井本町)は、「平成16年に太鼓台新調委員会を発足し3年かかった。苦労話というより、普通はめったに手に入らない、太鼓の鏡になる部分のケヤキ材(3尺2寸)が偶然手に入った。太鼓台でこの種の木材が手に入ることは、全国的にもめったにない。本当に感激してしまいました。大変な費用がかかりましたが、皆さんの浄財で完成させることができ、本当にお世話になった」と、感慨深げです。
大太鼓台の担ぎ手は、8人ですが、およそ一分間ごとに入れ代わり、総勢100人ほどが当たります。担ぎ手をふくめ、祭りに直接かかわるのは300人ぐらいだそうで、町を挙げての取り組みです。芝開さんは、「この時期になると町に帰省してくれる人たちがいて、とてもうれしい」と、なごやかな表情に。
旧太鼓台は、1926年(大正15年)に当時のお金で1700円ほどの浄財を集め、淡路島から購入しました。この時、お祖父さんが資料を残しておられたとのこと。芝開さんは、この度の新調の機会に、太鼓台の彫り物などの製作や完成にいたる経過などについて、記録や資料を残し後世に伝えたいという抱負も語っていただきました。
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芝開實さん |
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午前9時ごろから巡行が始まります。
今年太鼓台を新調した出雲井・鳥居は、まさに晴れ舞台です。
傍にいた、「祭り好き」を自認する客坊町の村上廣造さん(63歳)が持論を展開します。
「枚岡祭りの特徴はなんと言っても、祭りの主人公である担ぎ手と見物人との間に縄張りや隔たりがない。太鼓台が揺れると見物人も揺れる。太鼓台が大きく揺れて、押しつぶされそうになった見物人が恐怖と興奮で悲鳴を上げると、太鼓台の運行を見守っている年寄り(取締役・若中)が体を張って防御線を作る。事故なしで更に祭りが盛り上がる。参加者が祭りの主人公になって楽しめるのが、この祭りのええところ」。 |
初めてくりだした出雲井・鳥居 布団太鼓 |
12時ごろに枚岡神社の南地域に位置する南担ぎの喜里川・五条・客坊・河内・四条の太鼓が瓢箪山駅付近に集まります。
出雲井・鳥居の太鼓を除いて北担ぎの額田、宝箱、豊浦の太鼓が箱殿の交差点付近に集まり、小太鼓4台、大太鼓4台がドンドンドデドンと豪快に打ち鳴らします。この付近は交通量の多いところですが、この日ばかりはドライバー達も車の中からこの様子を楽しんでいるようです。 |
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午後2時になると、一の鳥居に出雲井、額田、宝箱、豊浦、喜里川、五条、客坊、河内、四條の順に集まり、坂道を登っていきます。太鼓台は一の鳥居から丁度1時間かけて、枚岡駅の踏み切りの狭い坂道に上がってきます。
大阪行きと奈良行きのプラットホームの端っこが格好のカメラスポットか、決定的瞬間をねらって、多くのカメラマンが待機しています。
午後3時半ごろから神社境内への宮入奉納です。勢揃いした真っ赤な布団太鼓と、それらを囲む境内にうっそうと茂る緑のコントラストの美しさは、見物客の目を釘づけにしてしまいそうです。
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西田保三氏撮影 |
勇壮な中担奉納
夜、ライトアップされた境内は昼間と違った幽玄なムードが漂ってきます。太鼓台は明かりを入れた提灯に付け替え、午後7時から宮入した順に、中担奉納といってもう一度境内を担ぎます。
9時ごろから祭りのムードが更に上がってきます。鳥居前で「さーせい」「さーせい」といって太鼓台を高々と差し上げ、見物客に「どうだい」と力自慢を見せ付けます。
午後10時ごろから宮入とは逆の順序で境内を後にし、地元に帰っていきます。本来であれば四条の太鼓が一番先ですが、今年は役回りのため最後に宮出をします。(四条の氏子総代)出雲井・鳥居の新調した太鼓台は、張り切っていたのが印象に残りました。
(村上通信員・楢通信員) |
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枚岡神社秋郷祭と青年の心意気
10月15日祭りの夜、瓢箪山の友人宅にいったときのこと。10時過ぎに近所の奥さんがひょこっと顔を
出し祭りを支える青年団の話になりました。
息子さんが布団太鼓を担いでいるので、その姿を見に行った帰りだそうです。息子さんは高校三年生
来年は就職なので、これが最後になるかもしれないらしく思い入れもひとしおのよう。 奥さんの話による
と彼は、自分の意思で青年団に入ったとか。最初の年は布団太鼓に触れず、一番後方で通過後のごみ
拾いから始まるそうで、年々太鼓に近づき、今年初めて担がせてもらったそうな。
聞くうちに、この地域では今も青年団組織がちゃんと機能していることが大変興味深く感じられ
ういういしい青年の姿に思いを馳せ、心が和む一時でした。
写真は布団太鼓の準備で大忙しの豊浦青年団 |
「祭りの準備は、毎年祭りの終わったときから始まっている」そうで、一年間に何度か定期的に集まっ
ていろいろな作業があるそうです。
最終の仕上げが直近の2週間、毎晩、青年団が地域の会館に集合して、各担当や配置をシュミレー
ションしながら打ち合わせ・準備を進めます。そんなおり、主人公の息子さん、自分のミスで青年団の
会議に遅刻をしてしまいました。全員が集合時間をきっちり守っている会合に遅刻してしまった彼は
翌日、誰に言われたわけでもなく、頭を丸坊主にして自分なりの責任をとったそうです。
非常に重い大きな太鼓台をみんなで協力して担いで、一日かけて地域を廻り、神社へ宮入してまた
深夜になって地元へ帰ってくる。この仕事を若者が華やかな部分から、地味な部分まで分担して行う
には、やはりそれなりの心構えと、綿密な意思統一が必要なのでしょう。
外見から見ていると、最近の若者たちは、金髪にしてチャラチャラしているように見えるが中には芯が
ちゃんと通っているのだと改めて感心しました。
枚岡の祭りは、青年団だけでなく、保存会や自治会など地域の各方面が一体となって作り上げてい
ると以前から話には聞いてはいましたが、今回、高校生の祭りにかける思いを聞いて「地域」というもの
を考えさせられた、出来事でした。
今、都会では希薄になっている「地域」のつながりが、「祭り」を通してちゃんと今日に生きて機能して
いる姿を見たような気がしました。このような「文化」をこれからも残してほしいと願った祭りの夜でした。
(岡部通信員)
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10月11日、秋郷祭の準備に忙しい権禰宜 濱上 晋介さんに、お話を聞くことができた。
「祭り」には“官祭”と“私祭”の二つの性格が
“官祭”に位置付けられるものは厳かに執り行われます。一方、布団太鼓が出る「秋郷祭」は、氏子が氏神様に豊作と無病息災のお礼をする“私祭”で、いわば庶民主体の祭り。15日の本宮祭では、氏神様が神輿に乗って近郷近在を回り、氏子たちの声に応えます。その後ろから、氏神様を讃えて布団太鼓がにぎやかにねり歩きます
昔、布団太鼓はなかった
江戸時代までは、祭りの主役はだんじり(地車)でした。明治のはじめ、坂が急峻なため、安全上、布団
太鼓に切り替わっていったといいいます。今もあるだんじりは、昔の名残です。
小太鼓、豆太鼓がある
祭りには少し小ぶりの“小太鼓”とさらに小さな“豆太鼓”が参加しています。小太鼓は中学生、豆太鼓は
小学3年から6年の子どもたちが担ぎます。
青年団が布団太鼓の運行の指揮をとる
境内で行われる「中垣奉納」は壮観。布団太鼓が勢ぞろいして勇壮なねり歩きを見せてくれます。激しいだけに一歩間違えば危険で、進行には細心の注意を払わねばなりません。
この「中垣奉納」をふくむ布団太鼓の運行の指揮をするのが青年団です。今年の当番は「豊浦」地区。
神社の由来は神話・伝説の時代から
元々、生駒山の神津嶽に祀られていたものが、現在の地に移されました。神話によれば、主神の
「天兒屋根命」が始めて神事を行い、中臣・藤原氏の祖神とされています。「元春日」とも称され、奈良の春日大社とも縁が深いといいます。
*古代においては、古河内湖のなぎさが現在の近鉄枚岡駅の少し下あたりにあったと思われる。しだいになぎさが後退し、少し西にある“一の鳥居”(鳥居町)のあるあたりには湿地帯をさけて東高野街道が南北に通じていたという。歴史への興味がつぎつぎ湧いてくる。
(楢通信員)
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鳥居町在住の石橋勇さんは、昭和20年代から写真を撮っておられ、ご自身でプリントされた枚岡周辺の風景を市民美術センターなどで展示されています。
この写真は、昭和20年代後半から30年代の枚岡神社秋郷まつりの出雲井・鳥居太鼓台とそれを支える人びとが写っています。
出雲井・鳥居太鼓台は、大正15年に淡路島より購入し、同年の秋の祭礼から80年にわたり親しまれてきました。途中、昭和60年に大修理をされ、太鼓台の新調が決定してからも昨年まで活躍しました。今年の秋郷まつりで新調された大太鼓台が初めて御披露目されました。 |
(写真は縮小してあります、クリックしていただくと拡大版をご覧いただけます。) |
宮入り 先頭出雲井
松之馬場 (昭和二七年)
※上記の写真は石橋勇氏の写真です。
本誌が許可を得て掲載しているものです
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(酒野通信員) |
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