2009年5月2日掲載
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「樟徳館」を知る人は年々増えているようだが、イメージを湧かせられる人はまだ少ないのではないだろうか。東大阪の貴重な文化財の一つに数えられているが、正直、私も最近意識したばかり。しかし、その屋敷構えのすがすがしさに心動かされる。一度内部を見学したいと思っていたが、今回、それが叶った。昭和初期の建築とは思えない驚きの内部を伝えたい。
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「樟徳館」の外観 クリック:拡大 |
近鉄長瀬駅から長瀬川沿いの遊歩道を北に歩いて五分ほどにある屋敷。2000年に登録有形文化財に指定されている。
この屋敷は、昭和の初期に建てられたもので、全国の銘木中の銘木をよりすぐり、腕のある棟梁を招いて作らせた木造建築。
建築主は、樟蔭学園(のちの学校法人樟蔭学園)の創設者で、大阪でも有数の材木商でもあった森平蔵氏。
森氏の没後、学園に寄贈されている。
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4年に一度の一般公開といわれている「樟徳館」だが、昨年の11月の公開にはせっかくのチャンスをのがしてしまっていた。
今年の3月に、その「樟徳館」で帝国キネマ・パネル展が開かれ、屋敷も特別に公開されると知人に教えられた。
「樟徳館」は、帝国キネマ長瀬撮影所の跡地に建てられており、その縁に因むイベントだ。
受付にいたのは大西由起子さん(写真右)。“東大阪まち遊び 人づくり準備委員会事務局”の仕事をはじめ、数々のイベントに活躍する女性。今回の企画でいいチャンスを与えてもらった。
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豪邸とよぶにふさわしい堂々とした造り。
隣地に製材所を設け、7年の歳月をかけ、昭和14年に完成されたという。
母屋は関西一の松普請といわれる。そのほかスギ、ヒノキはもちろん、クワ、カキ、ケヤキ、トチや、当時珍しかったチークなどの洋材も用いられている。
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写真は二階建て母屋と応接室の外観 |
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写真は庭園の風景 |
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いよいよ館内へ。 この日特別に、森平蔵氏の縁戚にあたる樟徳学園 監事の藤原準二さんから見学者への説明が行われた。
つい最近、屋敷内でテレビドラマ「白洲次郎」のロケがあったことなど興味深い話が聞けた。(写真左)
次いで館内を案内してくれたのが飛田太一郎さん。(写真左下) 建築士で大阪自然環境保全協会の理事を務め、木のことにかけては何でも知る人物。ふんだんに使われている銘木を丁寧に解説してくれた。材木商であった森平蔵氏の、木に対するこだわりの強さが伝わってくる。 |
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応接間の天井には間接照明が施されている。当時は蛍光灯はなく、長細い電球が使われたようだ。どこからそのような発想を得たのか興味が湧いてくる。
聞くほどに、贅を尽くし意匠を凝らした造りにため息がでた。しかし、一番強く感じたのは、純和風の外観からは想像も出来ないぐらいの邸内の“明るさ”だ。
窓が多くあるという物理的明るさばかりでなく、天井の高さ、曲線美、そしていたるところにちりばめられた遊び心が明るい開放感を生み出しているのだろう。森平蔵氏の人となりが偲ばれる。
写真は、応接間と間接照明・ステンドグラス(右上。右下)と ダイニング(左下)
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そればかりではない。合理的に生活するための工夫が凝らされていることに驚く。これも、森平蔵氏の生活感覚を示すものではないだろうか。
当時の電話は聴き取りにくかったという。集中して聴けるよう電話室を作ったのだろうか。各自のプライベートを守るためのようにも感じられる。(写真左)
使用人部屋と各部屋をつなぐ呼び鈴(りん)のシステムは、どの部屋から呼ばれているのか一目でわかる。(写真右) |
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今では普通のシンクや冷蔵庫だが、当時の生活感覚では考えられないほど先駆的だったろう。
(写真右はガス冷蔵庫) |
藤原さんや飛田さんの導きのおかげで、邸内の様子をいろいろ知ることが出来た。しかし、まだまだ建物に対する興味はつきない。それ以上に、これを建てた森平蔵氏の人となりに惹かれる。
昭和初期の暗い世相の時代に、明るい大正期のモダニズムや合理主義を取り入れた氏の感性や建築の意図に関心が湧く。
「樟徳館」の価値はまだまだ奥が深く、研究が進むことだろう。今回のレポートは、限られた範囲でしかないが、「樟徳館」に対する知識を少しは伝えられたのではないだろうか。この建物はまさに東大阪の貴重な文化財だ。機会があればぜひ訪れてほしい。 レポーター:楢よしき
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