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ふるさと東大阪2009年10月31日掲載





 

 
 
今日は、東大阪の南西、大阪市や八尾市に近い『衣摺(きずり)』へと、珍しい風景を探しにやってきました。
                             
                           ※写真はマウスポインターで変化します。

旧街道の雰囲気が残る通り

 近鉄大阪線弥刀駅を降り、大阪八尾線(国道173号線)を西に入った衣摺三丁目付近で、昔ながらの風景に出会うことができました。
 時刻は、3時過ぎでした。太陽は少し傾き 暖かいオレンジ色の光線が、柿の色を一層輝かせています。

  
      交通の要衝だったところ
 
 
このあたりは、南北の八尾街道と、東西の御本山道(ごほんざんみち)が交差していたところ。ご本山とは、平野にあった融通念仏宗の総本山『大念仏寺』のことです。江戸時代には信仰する人々が、たくさん行き来したようです。

 街道の交差点に160年ほど前に建てられた辻地蔵(おつる地蔵)が見られます。
 道しるべもありますが、埋もれて字が読めません。
教育委員会の文化財ガイドブックによれば以下のようです。
 

 北すぐ玉津くり
(玉造) 
 
西すぐ天王寺 
 
東すぐ志起山(信貴山) 
 
南すぐひらの(平野)
 八尾街道は、『暗越(くらがりごえ)奈良街道』の今里から南に分岐した道で、南へ向かえば八尾に通じていました。また、御本山道を下れば、『亀瀬越(かめのせごえ)奈良街道』とつながっていました。
 地図で見ると、当時の衣摺は交通の要衝だったようです。


地図は、東大阪市教育委員会制作、布施ライオンズクラブ寄贈の掲示板より。

 今でも衣摺の町並みには、風格のある家々があちこちに見られます。

            クリック:拡大


古代に決戦場となった『衣摺』

 『衣摺』は、古くは“きぬずり”と読んだともいい、地名の由来は、布に模様を染める技術をもつ人たちが住んでいたからではないかと言われています。
 この近くの大阪市には鞍作(くらつくり)、八尾市には弓削(ゆげ
という地名が残されていて、古代に、物部氏がこのあたり一帯に大きな文化圏を形成していたようです。



写真は光泉寺。このあたりに物部の稲城(いなぎ)が
あり、守屋は、弓矢で木から射落とされたと言われます。

下の写真は、八尾市跡部にある物部守屋の墓所
 『衣摺』の地は、この物部氏の悲劇の場所としても語り伝えられています。
 一説に、仏教をめぐる対立が原因ともいわれる、物部守屋と蘇我入鹿・厩戸皇子(後の聖徳太子)との武力衝突は、ここ『衣摺』が決戦場になったといいます。守屋は稲城(いなぎ)を築き、防戦しました。

※稲城=ハサ場に稲わらをかけて周りを囲み、矢を防ごうとしたものか。

 天気にもめぐまれ、秋の一日を歴史に想いを馳せながら、衣摺の町並みを散策できました。『衣摺』へは、JR東大阪線の『長瀬』駅からも便利です。


                                          レポート:楢よしき
                          
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