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2011年3月7日掲載
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前回、古代『水のまつり』が、王によって執り行われたらしいことがわかってきました。では、実際にどのような場所でおこなわれていたのでしょうか? それを示す遺跡が、東大阪で発見されていました。
前編から見る人は クリック
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(上)心合寺山古墳編
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けいはんな線 新石切駅近く
東石切町から平野(真西)を眺める & 西石切町から生駒山(真東)を眺める |
ここは、東石切町と西石切町の境目で、生駒山西麓の斜面にあたります。今から30年近く前、近鉄東大阪線(けいはんな線)の建設にともなって、このあたりで発掘調査がおこなわれました。(地図の赤丸部分) |
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赤丸が発掘現場 YAHOO地図サービスを活用
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地形の上からは、川の谷筋にあたります。生駒山西麓は、「どこを掘っても何か出てくる」といわれますが、この地域も歴史の宝庫といえそうです。発掘現場は、神並(こうなみ)遺跡と、西ノ辻遺跡がちょうど接するところで、『神並・西ノ辻遺跡』と表現されています。問題の遺跡は、谷筋と東高野街道が直交する場所で発見されました。
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『木槽樋(もくそうひ)』 不純物を沈殿させる『槽』の部分と、水を導く樋の部分が見られる
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木槽樋が出土!
遺跡の年代は、5世紀後半。そこから出土した物の一つが、上の木製品です。当時、発掘に携わった 中西克宏さん(東大阪市立郷土博物館・学芸員)によれば、「得体の知れない遺物が出てきた」と感じたといいます。 |
木製品は、一番上手に位置していることがわかりました。水を貯めたり、不純物を沈殿させる槽(そう)の部分と、水を送る樋(ひ)の部分でできています。まわりに穴の跡が4つあり、屋根の覆いがされていたようです。 |
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全体像が明らかに!
遺跡は、50分の1のミニチュア模型で再現されています。
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結果的に、遺跡は上のようなものでした。川から水を引き、次々と貯水池で沈殿をくりかえし、最後に家屋へ導く仕組みになっています。全体として構造的な施設になっていることが解明されました。 さらに驚きの発見がありました。
埴輪のガードマンが見つかる
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屋根つきの木槽樋のそばから、高さ1メートルほどの盾を持った一対の武人の埴輪(盾持ち人物埴輪)が発見されました。 古墳以外で埴輪が据えられているのは、珍しいことです。どうやら、川の水を守る役目を負っていたようです。
中西さんは、「水を浄化する特別な執念と、物々しさのようなものを感じた」と、当時を振り返ります。
しかし、この遺構の発見当時はもちろん、かなり長い間、これらの遺構の意味するところはわからなかったようです。 |
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『水のまつり』の実像が浮かび上がった
この謎の解明に一石を投じたのが、心合寺山古墳の調査です。東大阪での発掘成果と、この『導水施設形埴輪』の発見とが響きあい、王の『水のまつり』が実在のものであった証拠として、最近になって、両方の研究がクローズアップされることになりました。
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ミニチュア模型の建物は、『導水施設形埴輪』と雰囲気はちがいますが、そこでは同じ儀式が執り行われていたことでしょう。この模型の前で、古代の『水のまつりの』イメージが、さまざまにふくらみます。
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取材を終えて
郷土博物館と学芸員の中西克宏さん |
この遺構は、5世紀後半のものと考えられていますが、6世紀前半には、使われなくなったようです。中西さんは、その原因として、『水のまつり』の祭祀権が、地方の王から大和の大王へ移った結果ではないかと考えているそうです。
飛鳥地方に、水に関係する石造物が多く存在することからも、なるほどと、うなずける話です。
東大阪郷土博物館へは、近鉄瓢箪山駅から、山手に徒歩15分。博物館近くには、山畑古墳群があり、河内平野も一望できます。ハイキングを兼ねてどうぞ! レポート:楢
(上)心合寺山古墳編 ←クリック
資料提供:東大阪市教育委員会 |
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東大阪市立郷土博物館←クリック
追伸:郷土博物館は、3月7日(月)〜3月18日(金)まで、展示替えのため休館です。
郷土博物館近くの里山風景 |
郷土博物館前にある山畑22号墳 |
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