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ふるさと東大阪2012年6月22日掲載





 
 柔和な中に強い意志を秘めた風貌。近鉄奈良駅前で東大寺を向いて立つ行基菩薩像。今も尊敬を集め、今年で生誕1345年にあたります。行基は、河内國が生んだ偉人です。河内七墓や東大寺大仏造営などの功績で知られます。混迷の時代に、強いリーダーシップで民衆を導きました。
 今、日本もまさに混迷の時代。リーダー像のあり方が問われています。今回、元大手前大学教授で、行基にもくわしい
藤井直正さんの助言も受け、あらためて行基の人間像に迫ります。


① 行基の生い立ち


    古代河内湖 ウィキペディア & 河内國の範囲
 河内國大鳥郡(のち、和泉国)に生まれました。(668年・天智7年)  父は「高志才智(こしのさいち)」 母は蜂田氏の古爾比売(こにひめ)。どちらも渡来系の中流豪族の出自です。父方は、漢字を伝えた王仁の子孫という説もありますが、定かではありません。
    混迷の国内

 行基誕生の五年前、大和朝廷は百済の再興をかけ、唐・新羅の水軍と戦って破れました。(白村江の戦)大和朝廷は、唐が攻めてくる恐怖におののいていましたが、行基が生まれた年に唐と新羅が戦をはじめ、対外的な恐怖は少し和らいでいました。しかし、行基5歳の時に、古代最大の争乱である壬申の乱(じんしんのらん)が勃発しています。以降、行基の生きた時代は、政争と動乱、飢饉と災厄など混迷の真っただ中でした。

 壬申B.Cミラン大陸から俯瞰する古代日本&藤原仲麻呂

青年期 ある人との邂逅(かいこう)(めぐりあい)

 行基菩薩伝によれば、15歳で出家して法興寺(ほうこうじ・飛鳥寺に住み始めました。法興寺といえば当時、超エリート寺院で、今でいう東大に匹敵します。続日本紀によれば、青年行基は、「“瑜伽唯識論(ゆがゆいしきろん)”を難なく理解した」とあります。その法興寺で、人生最大の師と出会うことになります。


    現在の飛鳥寺のたたずまい  ウィキペディアより
 
 師の名は、
道昭(どうしょう)河内國丹比(たじひ)郡の渡来系豪族の出自。留学僧として唐にわたり、かの三蔵法師(玄奘三蔵)の薫陶を受けました。帰国してから10余年、全国を行脚し、井戸を掘ったり橋を架けるなどの土木工事をすすめます。行基が出家したころは、勅令により法興寺に戻っていたようです。
 
師は、唐の様子や、全国各地の話を語って聞かせたことでしょう。目を輝かせ、耳傾ける若き行基の姿が目に浮かんできそうです。


葛藤と決断

 道昭は、BC700年(文武四年)に亡くなります。当時、行基は薬師寺(藤原京)にいましたが、道昭亡き後、寺をでて生家に戻ります。なぜ寺を出たかという記録は残っていません。藤井さんは、行基の“民衆への思い”を指摘します。当時の僧侶は、寺にあって、国家鎮護を祈るのが仕事です。しかし、寺の外の様子は悲惨なものでした。
 続日本紀には、「諸国の役民、郷に還らむ日、食糧絶え乏しくして、多く道路に饉えて溝壑に転びるること、その類少なからず」とあります。この頃の税金は、地方の産物や労力でした。農民は、片道分の旅費にあたる現物をもらい、都へ向かいます。道中で行き倒れたり、流民となったりする者が続出していました。行基は民衆の苦難を救う道に踏み出します。下層の人々も人として尊ぶ感性は、この時代には稀有なことでしょう。行基37歳のときです。

 流民のスラム 石ノ森章太郎 マンガ日本の歴史 中公出版 

② 救民の道へ
  
 官寺のエリート僧への道を断った行基は、生家を私設の寺「家原寺
(えばらじ)」とし、弟子や技術者集団を率いて布教と救済事業に乗り出します。行基は、人々に知識(ちしき)(寄進や労力を募り、集まった知識衆と“結(ゆい)”を組み、共同作業を開始しました。当時としては画期的なことだったでしょう。布施屋※1給孤獨園(ぎっこどくおん)※2の運営は、朝廷に頼らず、かれらによって進められました。福祉事業の先達です。
             ※1旅人に食糧を施し休息させる ※2孤児、身寄りのない高齢者の救済所


    堺市の大野寺跡の土塔(復元) 堺市資料
 大野寺の土塔(どとう)の跡から、寄進者の名が刻まれた瓦が発見されました。財物や労力を集める工夫が見てとれ、行基の卓越したアイデアマンぶりがうかがえます。
   
 
           「院」を拠点に、地域活性の総合事業

 行基は、事前に「院」を建てます。今で言う工事現場のプレハブといった感じです。信仰の拠りどころであり、作業の打ち合わせや、飯場もかねていたと思われます。
  院を拠点に、食糧の生産量を上げるため、池や運河・溝を掘ります。流通の改善のため、道路を整備し港を開きます。また、洪水を防ぐため堤防を築きました。今で言う都市計画に相当します。作業は、地元の農民や流民・優婆塞(うばそく・在俗の仏道修行者)たちが担いました。庶民は、他人に働かされるのでなく、自ら喜んで働いたと予想されます。行基の事業はまさに地域を活性化させる「経世済民」の活動でした。
 

 石ノ森章太郎作 マンガ日本の歴史 中公出版 
 
  行基さんが畿内一円に開いた49院には、高瀬院や鶴田院など、その名で、工事の内容がわかるものが多くあります。事業完成後も「院」は残されました。補修などのアフターケアをするためです。造ったら終わりの昨今の公共工事とは違い、事業に血が通っています。「院」の運営は、弟子たちを信頼し、次々と任せていったようです。


   日下墓地南西の石凝院跡付近& 現在の石材店
 藤井さんは、日下の石凝院(いわこりいん)跡の発掘に携わった方でもあります。石凝りの名前から、岩を加工する工房があったと推測します。また、各地の工事現場に運びやすいよう、交通の要衝に置かれたと考えています。(東高野街道と、日下の直越(ただごえ)が交差する地点。日下津の近く) いまもってこのあたりに石材店が多いのは、そのなごりでしょうか。

「河内七墓(ななはか)」伝承

 東大阪で一般に知られるものに「河内七墓」があります。飢饉と疫病で、河内國一円に死者が続出しました。七墓は、行基が死者を手厚く葬ったところです。
 
 行基はこれを葬るにあたって
火葬を採用しました。師の道昭が我国で最初の火葬に付されたことも関連するのかもしれません。しかし、疫病の蔓延を防ぐ目的があった可能性があります。科学的な知見が備わっていたと考えられます。

    岩田墓地の行基座像 &長瀬墓地の行基井
盆の月に行基の開いた七つの墓地に参ると先祖供養になり、子に迷惑かけずに極楽往生できるという河内の庶民の言い伝え。東大阪市域は 額田・岩田・長瀬の各墓地。八尾市域は、神立・垣内・恩智・晒の各墓地 但し、日下墓地も行基が開いたという伝承があり、七つと限定できないようです。


迫害を乗り越えて

 行基の事業は、スムーズに進んだわけではありません。信仰を求める人々や、路頭に迷う人々が、「多いときは万人、少なきときも数千」(続日本紀)が説法に集まりました。

         生駒東麓 輿山墓地 行基像  しかし、「僧は寺で祈るもの」「仏教は国家のためのもの」という当時の朝廷や旧来の仏教勢力の考えからすれば、僧が外に出て、庶民に仏教を広めるなどは、とんでもない邪法でした。民衆が多く参集するさまを危険とみなし、60歳になる行基を「小僧」とさげすみ、たびたび禁止令が出されます。それにひるまず伝道と救済事業を進めた行基は、国家仏教から庶民のための仏教へと道を開いた不屈の先駆者といえます。
          
 
 さて、転機は聖武天皇の八年におとずれます。さすがの朝廷も、民衆のパワーと行基の業績を認めざるをえなくなったようです。今まで「小僧」と呼んでいたのが「法師」に、さらに「大徳」へと格上げされました。これには聖武天皇じきじきの意向が働いた可能性があります。
     平城京大極殿(復元)     ウィキペディア

③ 聖武天皇との出会い  
三都構想・大仏造営


      龍門石窟の盧遮那仏 洛陽郊外
 聖武天皇は、唐が三都制(長安・洛陽・太原)を採用するのを知り、平城京に恭仁京と紫香楽宮を加えた三都制をめざしたようです。洛陽郊外の龍門大仏を模して、紫香楽に大仏を造営することも計画に含まれていました。
 

 ちょうどそのころ、聖武天皇は知識衆が建てた知識寺に行幸します。知識寺の大仏を、自らの目で確かめるのが目的だったようです。そこで、聖武天皇は、民衆が力をあわせて造営した知識寺にいたく感銘を受けたとされます。

 後に発せられる大仏造営の詔に、「一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむ」というくだりがあるのは、その体験からでしょう。聖武天皇は、行基たち知識衆に助力を求め、行基はそれに応じます。翌年、恭仁京郊外で天皇、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)と親しく会談し、事業の相談をしたようです。行基74歳のころです。のち、大僧正に任じられています。


     知識寺跡(写真は知識寺跡の石神社)柏原市

  行基が建てた菅原寺(喜光寺) & 東大寺大仏殿
 行基が亡くなったのは平城京の右京三条三坊の菅原寺東南院において、82歳でした。一年前に聖武天皇は、行基が住む菅原寺に行幸しています。行基の健康を案じたためでしょうか。さらに、亡くなる一ヶ月前の行基から受戒をうけています。聖武天皇と行基との心のつながりを感じさせるエピソードです。大仏開眼の三年前でした。

 行基の遺体は輿に乗せられ、弟子たちが担いで生駒東麓の往生院に運ばれました。そこで火葬に付され、生駒山房(竹林寺)に葬られました。
 今から1263年前のことです。亡くなった後も、重源や叡尊、さらに忍性などの高僧に志は受け継がれていきました。

         竹林寺  & 行基御廟

④さらに業績の発掘を


   宝憧寺  暗越奈良街道沿い 豊浦町
 東大阪市域でも、当時の行基は縦横に歩き、あちこちで事業をすすめていたと考えられます。生駒山麓に行基が建てたとの伝承がある往生院六万寺。岩田墓地にあった阿弥陀寺。暗越奈良街道沿いの宝憧寺など、さらなる解明が望まれます。

 行基の事業は45年に及び、その足跡は畿内全域にわたります。NHKで「平清盛」が放映されています。その清盛が開いたといわれる大輪田泊(おおだのとまり)の港ですが。実はそれに先立ち、行基が大輪田船息(ふなおき)を開いており、その先見の明に驚かされます。卓越した構想力、企画力、実行力、どれをとってもリーダーの資質です。しかし、行基の最も偉大な資質は、藤井さんが指摘されているように、“民衆への思い”であると感じます。みなさん、いかがでしょう。

研究者によっては、ふなすえ、あるいはふねとまり ふなどまり など
         <クリック:拡大します>

   千田稔  天平僧 行基 異能僧をめぐる土地と人々
 
                参考文献上田正昭  「天平の僧行基」  なにわ大阪再発見第2号
                       宇治谷 孟  「現代語訳 続日本紀」 (上・中・下)講談社学術文庫
                       小笠原好彦 「大仏造立の都・紫香楽宮」 新泉社
                       小笠原好彦 「聖武天皇が造った都」 吉川弘文館
                       新創社   「奈良時代MAP」 光村推古書院
                       舘野和己  「古代都市平城京の世界」 山川出版
                       浜田博生  「奈良大好き歴史講座・資料」
                       藤井直正  「東大阪の歴史」 松籟社

                                              

    藤井直正さん  瓢箪山稲荷神社にて
       編集後記
 
 お話を伺った元大手前大学教授の藤井直正さんは、中学校の教師時代から行基の石凝院の発掘にかかわってこられました。枚岡市・東大阪市の文化財研究の要職を務める中でも、行基のことを忘れたことがないといいます。大学奉職後も、伊丹市の昆陽池あたりの行基の活動の足跡をたどっておられます。貴重な話をありがとうございました。藤井さんは、「行基さん亡き後、行基集団がどうなったか興味がある」と、さらなる意欲を語っておられます。あとに続く人々の出ることを祈ります。
 なお、本記事の内容につきましては、すべて編集部にその責があります。
     ルポ:楢よしき・ KOMATAN
付録 動画  行基さんの眠る里 生駒東麓へ
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