2013年3月27日掲載
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若江城遺構発掘現場 2013・1・10 |
上の発掘現場は、若江南町の若江小学校の敷地に接しています。マンション建設に伴う発掘調査で若江城関連の遺構の一部がみつかりました。地上部は何も残っていないのに地下からはこうして遺構や遺物が見つかリます。幻の若江城の空白の1ページが解明されている瞬間です。今回の特集は、東大阪市教育委員会文化財課と、郷土史家杉山三記雄氏の協力で、若江城の歴史に迫ります。
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目次
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若江城想像図(戦国時代) & 若江城跡関連 溝・堀検出位置 東大阪市文化財協会ニュースより転載 |
若江城の築城は、南北朝動乱期
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今から650年ほど前のこと。天皇家が二つに分裂し、公家・武家・寺社を巻き込んで対立抗争を繰り返していました。これを南北朝時代と言います。北朝をリードしてのし上がったのが足利尊氏で、室町幕府の始祖となります。 |
伝・足利尊氏像 & 畠山基國(続英雄百人一首より) |
戦略上の重要拠点
その北朝方の有力な守護大名である
畠山基國(もとくに)の時代に、敵方の南朝に対する防衛の拠点として、また、河内平野を治める守護所として築城されたのが若江城です。
この地は、大和川とその支流が網の目のように流れ、湿田・湿地に囲まれた天然の要害です。古くから若江郡衙(役所)や寺社(若江寺・若江鏡神社)があり、経済活動が盛んなところ。若江城が建てられたのは、まわりを見渡せる小高い所でした。
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遊佐氏が築城
実際に築城したのは、畠山氏の有力家臣の遊佐国長(ゆさ・くになが)といわれています。築城とあわせ、水運や街道の整備(十三街道など)にも取り組んだようです。14世紀末のこと。これ以降、遊佐氏が代々、河内國守護代(守護の代理)として若江城主を務めることになります。 |
大阪東大阪線の道路沿いにある石碑 |
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お家騒動から戦国時代に
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『真如堂縁起絵巻』より応仁の乱の様子 |
15世紀中頃に、河内國守護を務める畠山本家にお家騒動が起きます。正統な跡継ぎのない主家は、弟を養子として迎えますが、そののち庶出の子が誕生したため、家督を弟から奪い返します。
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畠山持國の実子 畠山義就「本朝百将伝」より |
家督をめぐる内紛は、守護代遊佐氏を分裂させ、幕府・朝廷を巻き込んだ騒動に発展します。庶出の子義就(よしなり)には山名陣営が、養子筋の後継者政長(まさなが)には細川陣営が後ろ盾となります。ついには日本を二分し、東軍と西軍が争う応仁の乱を誘発してしまいます。若江城主の家督争いが動乱の引き金になったのです。 |
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若江城は、獲ったり獲られたりの争奪戦の渦中に巻き込まれます。応仁の乱が収まっても、畠山氏内部の勢力争いは止まず、60年間にわたって抗争は続きました。この争いの結果、畠山氏の勢力はしだいに衰え、若江城の城主は目まぐるしく変わります。そのうち、四国阿波を地盤とする三好一族が河内平野に進出し、いよいよ群雄割拠の戦国時代となります。16世紀中頃のことです。 |
畠山氏家紋 足利二つ引 |
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信長と若江城
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紙本著色織田信長像(狩野元秀画 長興寺蔵)
& 将軍足利義昭画像 東京大学資料編纂所 |
同じ頃、天下統一をめざしている織田信長は、政争から逃れてきた足利義昭(よしあき)を奉じて上洛し、義昭を第15代室町将軍に就け、畿内平定を進めました。
一方、畿内に進出していた三好勢ですが、信長に敗れてしまいます。三好義継(よしつぐ)は信長に帰順します。信長はこれを赦し、義継を河内北半國守護に任じ若江城主とします。
しかし、義継にとって安泰かと思えたのも束の間、信長と将軍義昭が不仲となり、義昭は京から追放されてしまいます。
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苦境におちいったのが若江城主の三好義継です。なぜなら、義継は、将軍義昭の妹を妻に迎えていて、将軍の義理の弟になっていたからです。羽柴秀吉に護送され、将軍が若江城に送り届けられます。信長にすれば、貴人の直接処断をさけ、義継に始末させたかったのでしょうか。
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城主・三好義継の憤死
しかし義継は、信長の意に反し、将軍義昭を紀州方面に逃します。信長はこれを造反とみて、大軍をさしむけ、若江城を包囲しました。
もはやこれまでと見た三家老(若江三人衆)は信長に内通します。
その結果、城は落城し、城主三好義継は城門の上で腹を十文字にかっさばき、非業の憤死を遂げたといわれます。
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三好義継 「続英雄百人一首」より |
城下にキリスト教会 |
信長は、三家老に河内北半國を預け、そのうちの一人、池田丹後守(たんごのかみ)を若江城主としました。 |
河内の教会想像図 河内文化のおもちゃ箱 批評社より クリック拡大 |
このことにより、若江城下にキリスト教会が建つことになります。池田丹後守は、仕えていた先代三好長慶(ながよし・ちょうけい)の居城・飯盛山城にて集団洗礼をうけ、シメアンという洗礼名をもっていました。
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信長のキリスト教容認のもと、丹後守は、若江城下にキリスト教会を建設させました。若江の旧字名に、クルスや大臼(ダイウス=ゼウス)があることがそれをうかがわせます。若江城下では、茶の湯や連歌の会などが催されたようです。しかし、戦国の世に永く続く安泰はありませんでした。
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信長の石山本願寺攻め
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畿内を平定した信長でしたが、一向宗との対立が激化します。信長は、若江城を拠点に、上町台地にある一向宗の本拠地・石山本願寺を攻めました。攻防がくり返され、信長が一番手こずった相手とも言われます。世に云う石山合戦です。
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信長がひんぱんに若江城を訪れるのはこの頃です。ついに石山本願寺の法主・顕如(けんにょ)との間に和睦が成立し、顕如たち一向宗勢が紀州雑賀(さいが)に去り、もはや畿内に歯向かうものはありません。若江城を拠点とした戦いで、信長の全国制覇が完成したのです。すかさず信長は、若江城の廃城を決めます。天下統一を成し遂げ、将来、敵の拠点となるような場所を潰しておきたかったのでしょう。河内にあった城は、このころ、すべて廃城となりました。 |
伝顕如像 ウィキペディア |
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一瞬に消えた若江城
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宣教師ルイス・フロイスの顕彰切手
ウィキペディア
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1580年(天正8年)、信長の命で、若江城は地上から跡形もなく消え去りました。直後に訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、書簡に「若江の中央を通ったが、ここは今、城もなく、ただ多数の住民がいる町だった」と、その驚きを書き残しています。
ルイス・フロイスが若江を訪れた年、天下統一に王手をかけた信長の身に、本能寺の変の災難がふりかかることになります。1582年(天正10年)6月2日のことです。
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その30数年後、豊臣家功臣の木村重成が、大坂夏の陣で大坂城炎上を馬上から眺めたのち、覚悟の決戦に臨んだのが若江の地でした。乱世のはじまりと終わりをこの土地は見届けたことになります。
200年間戦乱の渦中にあった若江城は、その後400年以上、地下に封印され、静かに眠ってきたのです。
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取材を終えて |
発掘現場にて文化財課仲林篤史さんに伺う |
今回の発掘で、溝・堀から瓦・五輪塔・土師器(はじき)・瓦器碗(がきわん)などが出土している。若江寺のものと思われる古代瓦も発見されている。溝・堀は意図的に埋め立てられたようだ。さらに掘り下げると、弥生時代に達し、水田遺構に弥生人の足跡が確認されたという。地道な発掘によって、歴史の真実が少しづつ解明されていくようだ。
今回の取材では、武将の覇権争いを見てきたけれど、巻き込まれた農民や町人たちは大変だったに違いない。若江にあった一向宗の寺や門徒たちはどうなったろう。キリスト教徒はその後どうなったろうと、ふと思ってしまった。 ルポ:楢よしき |
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動画<歴史散策 旧若江城をしのぶ> |
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