2015年8月22日掲載
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70年目の終戦記念日が過ぎてゆきました。しかし、テレビではいまだに戦争の話
題が取り上げられています。それを見るにつけ、平和が一番との思いを強くします。
私たち東大阪にも戦争にまつわる遺跡・史跡※がいくつかありますが、先日、編集
部員がある情報をもたらしてくれました。生駒山麓に産業戦士の像が建っているとい
うのです。産業戦士像といえば、戦時中に労働者の士気向上のために建てられてい
ったもの。枚岡にあるのはどんな像なのか?終戦70年のこの夏に訪問することにし
ました。
<動画> 枚岡の産業戦士像を訪ねて ←ジャンプ
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戦争遺跡 産業戦士像 を訪ねて
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近鉄額田駅から坂をすこし下ったところ。産業戦士像の施主、松川豊子さんのお宅を訪問しました。かなりのご高齢と想像していたのに、お若い容姿に驚きました。実は、施主とは名目上で、当時は高校生だったとのこと。松川さんに詳しい話をお伺いしました。 |
豊浦町の坂 |
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左 松川豊子さん 右 お話を伺う山口編集部員 |
豊子さんの父親は、松川松造さん。「報國製線」という伸線業の会社の重役で、豊浦町の町長(昭和19年8月~同21年11月)を務めておられました。その松造さんは、戦後まもなくの1951年(昭和26年)に亡くなります。兄の松川菊次郎さんは、弟の遺志を大切にするかのようにこの像の建立計画を進めたそうです。
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1954年(昭和29年)の大阪砲兵工廠跡 |
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松尾芭蕉像 |
今となっては、兄弟の間でどんな話があったかはわからないとは豊子さん話。菊次郎さんから像の制作を依頼されたのが彫刻家の大西徹山さん。二科会会員で、代表作は三重県の伊賀線上野市駅前に立つ松尾芭蕉像。その徹山さん制作の産業戦士像の完成除幕式が1955年(昭和30年)におこなわれました。菊次郎さんは、姪の豊子さんを寄贈者としました。 |
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「式当日、私は参加してないんです」と、豊子さん。高校のクラブの試合があって、妹さんが代理出席されたとの裏話も聞かせていただきました。
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豊子さんのご自宅には、当時のレプリカの塑像が大切に保管されていました。それを拝見して、ある疑問がわいてきました。私が知っている産業戦士像とは大きく異なっているのです。裸体で、表情は柔和、そして何よりもくつろいだ姿態の像だったからです。 |
箱書き & 産業戦士像レプリカ塑像 |
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豊浦公民分館の表 & 裏 |
松川さんのお宅をおいとまして、さっそく現地に向かいました。豊浦公民分館の裏庭に像があるとのこと。昔は、裏が正面玄関で、元は小学校があったところです。 |
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柔和な像
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枚岡の産業戦士像 |
台座碑文 |
<碑文>
昭和9年 父、松造がこの地に大楠公像を寄贈したが、第二次大戦中に供出のやむなきに至り、その礎石のみが残っていた。今日、亡父の遺志をつぎ、産業戦士像を再びその上に建立する。
昭和30年3月8日
松川豊子 |
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像と対面すると、やはり戦中の産業戦士像とは雰囲気が異なります。彫刻家の大西徹山さんの表現をとおして、菊次郎さんや、ひいては松造さんたちは何を訴えようとされたのでしょうか。台座の碑文は多くを語りません。像から読み解く以外にないのでしょうか。
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穏やかで端正な若者の顔 |
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手に握られているペンチ |
像の手には、モノづくりの象徴としてのペンチがしっかり握られています。枚岡の伸線産業の労働者をあらわしていると思われます。
像のつくりは、すべての産業戦士像と共通のセメント彫像です。金属が供出されて使えない時代の作り方が踏襲されています。物のない戦時中のエピソードがよみがえります。 |
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時代背景 を偲ぶ
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像の見学の後、地域一帯をめぐって、像の設立当時の様子を探索することにしました。
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右の写真は、松造さんや菊次郎さんが役員を務めておられた伸線業「報國製線」があった南荘町のあたり。今は住宅地に変貌しています。
このあたりは、かつて「針金の枚岡」といわれた地域の一画にあたります。 |
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上流の豊浦川渓谷 |
その昔、豊浦川渓谷では生駒山を流れ下る川を利用し、水車による製薬・製粉がさかんでした。その後、水力による伸線業も生まれます。1914年(大正3年)、大軌(大阪電気軌道)の開通で、電動式の伸線工場が一気に豊浦川沿いの額田町、出雲井町、豊浦町、南荘町などのふもとへと広がっていきました。電動なのに川から離れなかったのは、針金を洗浄するときに大量の水が必要だったからです。※ 針金は軍需品としても重要で、伸線業は軍需産業の一つとして重視されました。中国大陸への侵攻が本格化する昭和十数年ごろ、国家総動員法などで産業界も貢献を迫られ、その流れの中で産業戦士という言葉が生まれました。像の命名の由来です。
※下流域の汚染水問題もあったようです。 |
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針金の街 栄華の記憶
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現大阪シティー信用金庫・枚岡支店豊浦出張所 |
戦後、枚岡の伸線工業は新たな発展を見せます。1950年から1970年代前半にかけての朝鮮戦争の特需と高度経済成長期です。産業戦士像が建立されたのは1955年(昭和30年)で、まさにこの前期に当たります。この像が建って以降、この地は今まで以上に繁栄の道を歩みます。
アンティークな建物は、現在の大阪シティー信用金庫・枚岡支店豊浦出張所。栄えた当時の面影を残しています。このあたりは“針金の枚岡”の中心地として、戦後の一時期は豊浦銀座とも呼ばれるほど賑やかだったようです。
昭和30年代の枚岡商店街(豊浦銀座)のにぎわい
山口編集部員の回想 ←クリック |
伸線業の中心地の名残を示す
(大阪シティ信用金庫所蔵)
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昔の豊浦銀座 & 枚岡針金同業組合事務所があったあたり |
円高、オイルショックなどを経て伸線産業は停滞期を迎え、今は、閑静な町並みに変わっています。産業戦士像は、この歴史の証人として、また、モノづくりの街の象徴として存在感を示し続けます。それにしても、あの柔和な像にどんな想いが込められているのでしょうか。みなさんはどのようにお考えになりますか。
※東大阪の戦争体験 ←クリック |
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参考文献:枚岡伸線業地域における工場跡地の
利用形態
河原典史 (立命大紀要)
枚岡市史第一巻本編
東大阪市史近代Ⅱ
ルポ:T・山口 楢よしき 校正:駒 |
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①
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