|
2011年7月15日掲載
2011年7月25日改訂
|
|
|
瓢箪山駅近くの山すそに、かって大きな古代寺院がありました。土地の人は、「昔ここに『こんでら』というお寺があった」と言い伝えてきました。近年の発掘の結果、その重要性が認められ、2008年(H20)に国史跡に指定されました。いまだ知る人の少ない幻の寺ですが、後編は、寺を建てた勢力と土地柄に迫ります。
※学術上は河内寺廃寺ですが、ここでは河内寺の表記を用います。
|
先進技術を受け入れた土地だった
河内寺が建てられたのが7世紀の中頃から末にかけてです。仏教が広まるごくはじめのころ、この地に大きな寺院を建てる力をもっていたのはどんな勢力なのでしょう。これを探るため、時代を少しさかのぼってみます。
河内湖のほとりの生駒山西麓には、縄文・弥生の遺跡が多くありますが、古墳時代の5世紀から6世紀にかけて、それまでとはつながりのない集落が現れます。 |
発掘当時の河内寺廃寺跡の航空写真 |
|
この集落の跡や、群集墳から出土した物には、ある特徴がありました。土器は韓式系土器※や、登り窯で焼いた須恵器が多く発見され、住居跡には朝鮮半島由来の造りつけのかまどが見られます。
※韓式系土器=朝鮮半島
の土器づくりの影響を受
けた土器 |
ろくろをつかって成形し、高温で焼いた須恵器 |
|
古市古墳群出土の鉄製甲冑
大阪大学所蔵 |
また、鉄の製品をつくったときにできたと思われる鉄滓(てっさい・てつくず)や、ガラス玉をつくったと思われる石の鋳型など、当時の最新の技術が見つかっています。(植附古墳群・神並遺跡・縄手遺跡等) また、今まで日本にいなかった馬が飼われはじめ、生駒山西麓は馬の産地になっていたことがわかっています。(山畑古墳群・出雲井古墳群等の馬具や、日下遺跡の馬の埋葬跡) このようなことから、日本の古墳時代に、中国大陸や朝鮮半島から争乱を逃れて来た人々が、河内湖のほとりに定住したと考えられています。
|
こぎ手の多い準構造船(滋賀・新開4号墳)
このような船に子馬を乗せて運んだのか・・・。 |
|
渡来氏族 河内直(かわちのあたい)の氏寺か? |
そのころの大和政権は、地方を従えようと策を練っていました。その一つが氏姓制度(しせいせいど)で、血縁関係にあるものを中心に、それに従うものを含めた氏(うじ)と、それをたばねる氏上(うじのかみ)を公けに認め、その氏に、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)などの姓(かばね)を与えることで中央に従わせようというのです。朝鮮半島の百済からやってきたと思われる河内氏の祖先は、河内湖の低湿地帯の開拓などで地方豪族としての力をたくわえていましたが、河内の氏(うじ)と認められ、直(あたい)という地方豪族に与えられる姓(かばね)をもらい、河内郡の大領(たいりょう=地方長官)に任命されたようです。
※河内直とは、個人名でなく、氏とその位をあらわす。
|
この河内直の名は、すでに5世紀中頃に造られたと思われる『隅田八幡神社人物画像鏡』(和歌山県橋本町・国宝)に、『開中費直(かわちのあたい)』としてみえます。また、同じ頃、朝鮮半島の安羅で外交・軍事面にたずさわっていたことが日本書紀に書かれています。 |
人物画像鏡
ウィキペディアより |
|
海を渡る当時の超大型船 ウィキペディアより |
この河内直という氏族は、7世紀の後半から華々しく活躍します。天智天皇のとき、河内直鯨(かわちのあたい・くじら)が、遣唐使として派遣されます。天武天皇のときは、直(あたい)姓から連(むらじ)姓へと大きな昇進をはたします。河内寺創建は、この河内直一族の興隆期にあたります。 |
|
吉備(きび)地方にあったエピソード
|
河内寺の創建の経緯はわかっていませんが、当時の地方豪族と仏教のかかわりを示す吉備地方のエピソードを紹介しましょう。平安時代のはじめに書かれた仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』※に載せられた、備後(びんご)国三谷郡の、ある大領(地方長官)の話です。大領が活躍したころ、大和政権と親しかった百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされました。
※日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)
|
遠山美都男著『白村江 古代東アジア大戦の謎』
講談社現代新書 表紙 中川恵司氏作 |
斉明天皇と中大兄皇子が百済を助けようと救援軍を募っていて、三谷郡の大領はよびかけに応えて救援軍に加わります。そのとき、「もし無事に帰れたら、立派な寺を建てます」と仏に誓いました。
結果、救援軍は白村江で大敗したのですが、大領は命びろいをしました。 |
|
このあと大領は、百済の“弘済(こうさい・ホンジェ)禅師”をともなって無事に三谷郡に帰りました。おそらくこのとき、国を失った百済の技術者も連れかえったのではないでしょうか。大領は、仏への誓いを果たすため、弘済禅師の指導で寺の建物を完成させました。しかし、肝心の仏像がまだありません。
|
海柘榴市跡にあるタイル画 大和川で難波と直通だった。 |
そこで弘済禅師は、大領から『宝』を預かり、みずから大和の都へのぼります。そのころ栄えた市場といえば三輪山麓の海柘榴市(つばいち)でしょうか。市場で仏像の材料となる金と丹(に=水銀)を買い求めます。難波津から大きな船に荷を積み替え、備後国に帰ったというのです。説話めいたエピソードですが、現実には、広島県三次市の『寺町廃寺』がそれにあたると考えられています。
|
広島県三次市 『寺町廃寺』の復元模型 |
この話から、当時、仏教が地方豪族に広まっていたことや地方豪族の豊かな財力がうかがえます。また、寺の建設や運営に渡来人が大きな役割を果たしていたことがわかります。
660年に百済が滅び、ついで668年に高句麗が滅びます。その遺民が多く日本に渡ってきます。河内寺を建てたと思われる河内氏は、新しい技術を携えてきたこれらの人々を受け入れ、さらに大きくなっていったのではないでしょうか。河内寺の一番古い瓦が高句麗系といわれています。大陸の動乱を背景に、一大ドラマがあったことでしょう。
|
その後の河内寺 |
河内直の氏寺として創建されたと思われる河内寺ですが、その後、河内郡衙(役所)に付属する寺として栄えたようです。郡衙跡は、寺跡のすぐ北西の皿池遺跡群の中で見つかっています。現在の河内町、喜里川町、本町にまたがった範囲です。河内連になった河内氏は、奈良時代の河内連三立麻呂のとき、河内國大進(だいしん)となり、ついには河内連一族としては最高の『和泉守(いずみのかみ)』に任命されています。それにしたがい河内寺は大いに栄えました。
しかし、平安時代に入って、河内國の土地売券にある河内連の署名を最後に、文献に登場しなくなります。氏族の勢力が衰えてしまったのでしょう。保護者を失った河内寺は、当時栄えていた客坊の密教系の寺に取り込まれたのではないかと考えられています。
|
そんな河内寺も、最後のときを迎えます。河内寺は、ある日、山麓を流れ下る土石流に飲み込まれ、崩壊してしまったようなのです。発掘作業で、大量の土砂に埋まった瓦や椀が発見されました。瓦や椀の調査から、災害は鎌倉時代末期(14世紀初頭)に起こったものとわかりました。埋もれた河内寺は、700年の時を経て、私たちの眼前に姿をあらわしました。 |
大きな地図で見る |
画像が乱れている場合、画面右上の地図・写真・地形
のいずれかに切り替えると修復します。
|
史跡公園の構想 |
|
『河内寺廃寺跡』が国史跡に指定されたことを受けて、『史跡公園』にする構想があると聞きます。どこまで進んでいるのかわかりませんが、ぜひ実現してほしいものです。
その構想を練る段階から、地元の人たちや郷土史家の参加をのぞみます。公園を守るのに一番頼りになるのは地元住民です。郷土史家がみんなに語り広げてくれます。東大阪市民の誇りとなるような『史跡公園』ができるといいですね。
<参考文献> 『東大阪の歴史』 藤井直正著 松藾社
『国史跡 河内寺廃寺跡』 東大阪市教育委員会編
『渡来人とのであい』 東大阪市郷土博物館編
『縄手郷土史』 縄手中PTA広報紙連載 荻田昭次著
幻の古代寺院『河内寺』<前編> を見る ← クリック
|
|
東大阪市教育委員会文化財課
菅原章太さん |
取材から 河内寺という寺があったことと、その遺構が、国史跡に指定されていることを最近知った。東大阪では、日下遺跡と、鴻池新田会所についで三番目ではないか。
前編では、河内寺の概要を、後編では建てた氏族についてお知らせした。今回の取材で、貴重なアドバイスをいただいた市教委文化財課の菅原章太さんと、市立埋蔵文化財センターの勝田邦夫さんに感謝申し上げる。
レポート:楢よしき
|
|
|
トップページに戻る |
|
|