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2020年4月15日掲載 |
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新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。皆様いかがお過ごし
でしょうか。家に閉じこもっていて、気分がすぐれないという方もおら
れるようです。さて、鳩まめも、外での取材を控えているため、話題の提
供に困っています。しかし、思い至ったことがあります。感染症で悩むの
は現在の私たちだけではありません。昔の人はどのように乗り越えたの
か調べてみよう。現代に生かせる知恵があるかもしれない。そんな思い
で記事を作ってみました。
index
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奈良 総国分寺 東大寺大仏殿 廬舎那仏 |
現在、新型コロナウイルスは世界全体を震撼させています。
しかし、感染症に人間が脅かされるのは、今に始まったこと
ではありません。今こそ落ち着いて、感染症とたたかってきた
過去を振り返り、教訓から学ぶ時ではないでしょうか。 |
困窮者に具体的な手立て |
平城宮址 復元大極殿 |
さて、奈良時代の聖武天皇の
世に、「天変地異」により飢饉が
多発しました。栄養失調や環境
の悪化で、人々の間に天然痘が
広がります。このとき、世間を驚
かす事件が起こります。なんと、
時の実力者藤原の四兄弟が相
次いで天然痘にかかって亡くな
ったのです。当時、はやり病は、
悪霊や怨霊の祟りと恐れられて
いましたから、長屋王の祟りと
噂になりました。
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怨霊の例(崇徳院) |
長屋王とは、当時、藤原氏と
勢力を二分していた有力皇族
です。その王を、藤原氏は謀り
ごとをめぐらし殺害しました。
巷では、藤原四兄弟の死は
この長屋王の祟りで、庶民はそ
の巻き添えをくって、はやり病に
苦しんでいるととらえました。 |
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仏像と美と歴史に迫る (NHK放送) |
NHK for school より |
聖武天皇は、怨霊を鎮め疫
病を退散させるため、仏教の
力に頼ります。国家プロシェク
トの大仏造営の動機の一つで
す。この事業には窮民対策と
いう一面がありました。働く者
には一日ごとに米と酒などを
配給します。造営資金は寄進
で、庶民は「一枝の草、一握
りの土」でもよいとし、裕福なも
のに多くの寄進を促しました。 |
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造営期間は5年間で、働いた人数はのべ260万人です。そ
の当時の人口は推定500万人ですから大変な大事業。その
間、働く人たちに食事が配られていたわけです。
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VIVTAGE NEWS より |
エジプトのピラミッドも最近の
研究で、農閑期の対策として
、働くものにパンと塩とともに
野菜スープやビールが配られ
たことがわかっています。
個人責任とばかりせず、民衆
の生活を考慮することは、洋の
東西を問わず、古代でもおこな
われていたようです。 |
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近鉄奈良駅前の行基像 |
聖武天皇はまた、庶民の貧
困や病気にも目を向け、布教
と社会事業を進めていた行基
を見出します。利他の理念を
持つ行基は、行き倒れた人々
を助ける「布施院」や、無職の
者に橋を作らせるなどの土木
工事、いわゆる失業対策をお
こなっていました。天皇は、位
の低い現場の人の声や識者
の声に耳を傾けたのです。
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総国分尼寺 法華寺 から風呂(今のサウナに似る) |
皇后の光明子も、施薬院や
悲田院などの事業を進めてい
ます。法華寺には病気の人が
入れるから風呂がありました。
このように、感染症対策は一
時的な施策で乗り切れるもの
ではなく、民衆の本当の復興
まで長い道のりがかかります。
困窮に対する対策なくして感
染症対策は成り立たないこと
をすでに示した事例です。 |
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冠木門形式の関 (石部宿場の関) |
古代の三関の位置 |
また、今から見れば、聖武天
皇は画期的な対策を打ってい
ます。それは三関の固関(こげん)
です。三関とは古代の三つの
関所で、鈴鹿、不破、愛発(あら
ち)のこと。天然痘流行のとき、
この関を閉め(固関)たのです。
人と物の往来が止まり、東国
への天然痘の流行を抑えまし
た。天皇が自覚していたかは別
にして、都市封鎖の対策と見え
ます。 |
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危機管理の資質
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聖武天皇像 |
このように、科学が発達してい
ない古代にあって、神仏に頼ら
ざるを得ない面はありました。
しかし、祈るだけでなく、民衆
を救う具体的な手立てを打って
いることに目を向ける必要があ
ります。また、その時代の識者
の声を聞く器量も必要なようで
す。 何より学ばねばならない事
はリーダーの謙虚さです。天然
痘などの災害の多発にたいし、
聖武天皇のとった態度から学ぶ
必要があります。天皇は「(災い
は)私の不徳のいたすところ」と、
述べ「朝早く起き、夜遅く寝てか
らも多くの人民のことを心配して
いる」、「問題があれば私一人の
責任である」と詔(みことのり)して、
人々の結束をはかりました。
危機管理の時にリーダーがと
るべき態度や資質を考えさせる
故事です。 |
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疫病とのたかいの歴史から学ぶ
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京都の八坂神社の祇園祭(ぎおんまつり)も、勇壮で優雅な祭と
して有名です。しかし、この祭りが、1000年以上にわたっ
て怨霊封じ、疫病封じの目的で行われていることを知る人は
少ないようです。 |
地層に残された貞観地震による津波の痕跡 |
平安時代前期の869年(貞
観11年)に、三陸沖で大地震
が発生。津波も襲い大きな被
害がでました。疫病も発生して
います。時の清和天皇は、陸奥
国が被災地とする詔を発し、救
護にあたることと、身分の差別
なく死者を葬ることを命令します。
また、被災者には租税と労役
の義務を免除しました。
翌年には、「陸奥国修理府」を
設置し復興にあたらせます。
援助が十分かどうかの議論は
さておいて、神頼みでなく、「被
災者を具体的対策で救う」という
姿勢がここでも見られます。
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御霊会 |
天皇のおひざ元の京都平安
京では、疫病や死者の怨霊を
鎮めるため、御霊会(ごりょうえ)
などの儀式がおこなわれました。
これが現在の祇園祭の起源
といわれています。八坂神社
の祭神は牛頭天王(ごずてんのう)
で、スサノオノミコトと同一としま
す。スサノオが旅をしているとき
、蘇民将来(そみんしょうらい)が親
身な世話をしたことから、スサノ
オはその子孫であれば疫病から
免れるようにしたとの説話があり
ます。 |
八坂神社 大威徳明王(牛頭天王) |
八坂神社の「疫神社」では、蘇
民将来の子孫の証として、茅の
輪をもっていれば疫病から救わ
れるという伝承があります。
祇園祭は、7月1日の吉符入り
から7月31日の疫神社の夏越
(なごし)の祓えまでの一か月間お
こなわれるものです。
1000年も続いているという事
実は、単に伝統を守っているとい
うだけでなく、感染症対策にとっ
ても有益な何らかの要素が含ま
れていると考えられます。これは
今後の課題です。 |
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疫神社の夏越の払い 茅の輪くぐり |
少なくとも、町衆の結束力を高
め、疫病などの災害のときにも
「守りあう」という地域力が培われ
たのではないでしょうか。
応仁の乱のさなかでも祇園祭が
おこなわれていることは、町衆の
結束の強さを示すものです。100
0年の歴史の中に、感染症から町
を守る知恵が含まれているかもし
れません。温故知新でコロナ対策
を考えるのも一つの迫り方ではな
いでしょうか
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編集:楢 和泉 校正:駒 SE:クニヒコ
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